もしかするとこのページに誰かが訪れてくれるかもしれないのでおさらいを書いておく。
前半は私の体験をもとに「アイデンティティ」の話をした。アイデンティティというと民族や国籍と捉えられがち。それはかつて国民=民族=同じ価値観という時代が長かったからだ。今はちょっと違う。自分が何者であるかというのはそれだけではないし、一言では語れない。いろんな面があって然るべきなのだ。自分という人物を説明するたくさんの同一性。サヨリの場合は国籍は日本、人種はモンゴロイド、文化背景はアメリカナイズされた日本、家庭内のステータスは母親、自認性は、、と言う感じ。そしてその集合体が「私」である。見た目で判断はできないし一言では言い表せない、もっともっと複雑な存在なのだ。
「もしかして自分が誰かのアイデンティティを勝手に決めつけてしまっていたかも?」と、思った人がいるかもしれない。大丈夫、みんな多かれ少なかれそういう経験はある。動物は本能的になじみのない物事や他者を警戒する。そんな本能から見た目や考え方の違う誰かを特別化してしまったかもしれない。警戒しなくても大丈夫だと自分が知ればいいし、これからも他者への想像力を働かせ、失敗もしながら成長していけばいいのだ。失敗してしまったら「言葉」を使うとよい。
後半は、「違い」と言うポイントで、「差、差別、格差、平等、公正」の順に私の経験と世の中の大きな流れを話した。そこで一部見せたYouTube映像をここに紹介しておく。
差 − 人には大なり小なり必ず差がある。肌の色、体格差のように目に見えるものから、能力差、性格、文化など。差があることは良い悪いではなく自然なこと。
差別 − あるものを、正当な理由なしに、他よりも低く扱うこと
日本に差別はないか?欧米のように悪意を持って差別をする人は少ないが、無意識に差別をしている人が多いというのが現実。外国人が少数派で、文化の違いからその行動がこちらには理解しにくかったり、犯罪率が少し高い(実は減ってはきている)のも原因。なぜ犯罪率は高いのか、米国における犯罪率の高さには彼らの環境が非常に悪いことが一因になっている。そこで格差の話をした。
格差 − 同類のものの間における、程度(水準・資格・等級・価格・格付け、レベル)などの差や違いである。また、社会問題の一つとしての意味合いを込めても用いられる語であり、貧富の差(経済格差)などを意味しても用いられる。
日本では差別や格差はまだくすぶっている状態。特権を持たざる者たちの声が届く仕組みがないと不満は溜まっていく。欧米のように燃え上がる前に特権側が誰かの人権を知らず知らず阻害していないか考えていくことが大切。日本は平等な社会から公正な社会へと転換が求められているのでは?