Tuesday, February 17, 2015

想像力と見守る力

気付けば2ヶ月間もブログを放置しておりました。夏からNPO団体クリエイティブサポート・レッツの運営する私設公民館に週に一回半日というわずかな時間ではありますがボランティアにいっております。お陰さまで様々な出会いや機会を得ています。

今年度はかなりインプットの年でありました。たくさん伝えたい事があるのですが、処理
速度が遅いため、なかなかまとめることが出来ず放置〜となってしまいました。何かの機会にまた出せるといいのですが。

さて、先週行った発達のゆっくりな子どもの療育を行っている根洗学園の40周年記念「公開療育根洗劇場 ~今日もいつもどおり劇的~」について。

家族とのんびり過ごせる祝日だったので、興味はあったけれど行く事をとても迷っておりましたが、事前に園長先生のお話を伺って行く事を決心しました。終えてからとても清々しい気持ちになりました。単純にこどもたちが微笑ましかったし、先生方が温かかった。日だまりのような一日でした。

福祉関係者とは気付く点が違うと思うのですが、やはり私は育児の視点で見ていました。
育児に関して私自身いつも悶々としています。それは娘らが歳を重ねる毎に強くなっていきます。どうしてもっとのびのびとさせてやれないのだろうか(自分も、周りも)。

長女が生まれた8年前、この子は心優しく賢く育って欲しいといろいろな育児書を読みました。書店に並ぶ「○○な子に育てたかったら××しなさい」「目指せ、△△脳!」みたいな書籍はたくさんありますね。子どもの数は減っているはずなのに親の期待は反比例していますね。

でも、最近は絶対にやってはいけないことを除けば、こうしたらこうというような方程式は当てはまらないと思います。こどもはみんな違うのですから。そんな一見当たり前なことに何年もして気付いたのですが。

余談ですが、こんなことを言うのは小さなこどもに英語習得の場を提供することを仕事としている私としては、大変矛盾していて苦しいんです。小さい頃から英語に触れたら、異物感はなくなるけれど本人が嫌だったらそれまでだし、大きくなってから身につけた人もたくさん知っています。もしも、子どもが英語習得のために何かを犠牲にしているのなら、それはとても残念な事です。生活や遊び以上に大事なことは子ども時代にはないと考えています。遊びとコミュニケーションの一部でありたいです。

話は戻って一日療育を見て思った事は、これは育児にとても役に立つということ。先生方はプロフェッショナルですが、それでもその日の状況やそれぞれの個性に合わせ葛藤しながらやりくりしているということ。泣いていたり、暴れているこどもにものすごいスピードで想像力を働かせます。「この子は今なにが嫌なんだろう?」そこには長い伏線があったりして、丁寧に丁寧につきあっていないと達しない答えもあったり、なかったり。

そして丁寧な言葉がけと見守ること。口は出すけど、手は出さない。時には笑顔で羽交い締めという場面も当然ありますが、基本的にヒントを与えながらそれぞれの育ちを忍耐強く待っています。

かなり高い想像力と忍耐力に溢れているなと感じました。私は、こどもや社会的弱者にばかり変化を求める社会に疑問を持ちます。彼らのらしさを認めながら育ちを待つ力、根洗学園の先生程までいいませんが、社会全体がもう少し想像力を持って人に接する事が出来れば「不適合者」はぐっと減るし、みんながリラックス出来ると思うのです。はい、もはや育児も越えています。社会にいる誰しもに想像力とか寛容性について考えて欲しい、公開療育を見て欲しいと思いました。

接すれば接する程未熟者故の彼らのらしさ、面白さがあるのです。もっとそこに目を向けて笑っていられる社会に向かって行くには何が出来るのかなと年度末でいろいろな始末をしなければいけないこの時期に頭がいっぱいでございます。(というつぶやき??)

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